成良親王
成良親王 | |||||||||
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日本親王 | |||||||||
國家 | 大和王朝 | ||||||||
時代 | 鎌倉時代後期、南北朝時代 | ||||||||
姓 | (無) | ||||||||
名 | 成良 | ||||||||
封爵 | 二品親王→東宮 | ||||||||
出生 | 嘉曆元年(1326年) | ||||||||
逝世 | 興國五年/康永三年正月初六(1344年1月21日(18歲)) | ||||||||
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經歷 | |||||||||
征夷大將軍 | |||||||||
日語寫法 | |
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日語原文 | 成良親王 |
假名 | なりよししんのう |
平文式羅馬字 | Narinaga Shinnō |
成良親王(日語:成良親王/なりよししんのう Narinaga Shinnō,1326年—1344年1月21日),是日本鎌倉時代後期及南北朝時代的皇族,生父母是後醍醐天皇及阿野廉子,同母兄弟有恆良親王、義良親王(後村上天皇)。
經歷
元弘三年/正慶二年(1333年)、足利尊氏及新田義貞合力將鎌倉幕府滅亡,後醍醐天皇的建武新政開始,翌年(建武元年、1334年),兄長恆良親王被立為皇太子,成良則為鎌倉府將軍,尊氏之弟足利直義奉其於鎌倉幕府崩潰後的關東統治。翌年中先代之亂時回京,短期停止征夷大將軍職務。延元元年/建武三年(1336年),足利尊氏擁立光明天皇為天皇時立他為皇太子,不過很快就廢去他皇太子之位。在古典《太平記》中,傳說他和恆良親王一樣遭到毒殺,但並非史實。
系譜
〔北朝〕
治仁王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(北1)光嚴天皇 | (北3)崇光天皇 | 榮仁親王 | 貞成親王 (後崇光院) | (102)後花園天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(北2)光明天皇 | 貞常親王 | 〔伏見宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長助法親王 | (北4)後光嚴天皇 | (北5)後圓融天皇 | (北6)(100) 後小松天皇 | (101)稱光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
珣子內親王 (後醍醐天皇中宮) | 皇子某(小川宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔南朝〕
(96)後醍醐天皇 | 尊良親王 | 守永親王 | |||||||||||||||||||||||||||||
世良親王 | 良玄法親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||
護良親王 (尊雲法親王) | 興良親王(大塔若宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||
宗良親王 (尊澄法親王) | 某親王(明光宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||
恆良親王 | 尹良親王(源尹良) 〔後醍醐源氏之祖〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||
成良親王 | (98)長慶天皇 | 〔玉川宮〕 | |||||||||||||||||||||||||||||
(97)後村上天皇 | (99)後龜山天皇 | 〔小倉宮〕 | |||||||||||||||||||||||||||||
懷良親王 | 某親王(護聖院宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||
滿良親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||
相關項目
軍職 | ||
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前任: 護良親王 |
征夷大將軍 1335年-1336年 |
繼任: 興良親王 |