若年寄(日语:若年寄/わかどしより)是日本江户时代的职位称谓。
江户幕府的若年寄是老中之下的高级职务,负责协助老中处理幕府事务。各藩中也设有与幕府类似的若年寄职位。
由于“若年寄”一词的字面含义,人们有时用它来指代“年纪轻却显得老成的男性”或“虽年轻却有着被认为是老年人的兴趣或思想的人”[1][2]。
歷史
相對於協助將軍統領全國政務的老中,若年寄負責輔佐將軍家的家政、管理將軍直屬的武將旗本與家臣御家人。
寬永10年(1633年),三代將軍德川家光任命松平信綱、堀田正盛、三浦正次、阿部忠秋、太田資宗、阿部重次等側衆六人處理日常雜務,稱作「六人眾」,其中四人後來升任老中,因此這項制度一度於慶安2年(1649年)廢止,相關職權轉移至老中身上,由老中行使原親信「六人眾」的權責。寬文2年(1662年),四代將軍德川家綱恢復設置若年寄的職務,該職通常定員四人,由俸禄较少的譜代大名之中選任。該職位是幕臣日後升任老中、御側御用人的門檻,屬幕府要職之一。
歷任幕府若年寄
- 松平信綱(1633年 - 1635年)
- 阿部忠秋(1633年 - 1635年)
- 堀田正盛(1633年 - 1635年)
- 阿部重次(1633年 - 1638年)
- 太田資宗(1633年 - 1638年)
- 三浦正次(1633年 - 1639年)
- 土井利隆(1635年 - 1638年)
- 酒井忠朝(1635年 - 1638年)
- 朽木稙綱(1635年 - 1649年)
- 加納久通(1745年 - 1748年)
- 堀直旧(1745年 - 1748年)
- 三浦義理(1745年 - 1749年)
- 堀田正陳(1745年 - 1751年)
- 秋元凉朝(1747年)
- 小堀政峯(1748年 - 1751年、1756年 - 1760年)
- 小出英持(1748年 - 1767年)
- 松平忠恒(1748年 - 1768年)
- 酒井忠休(1749年 - 1761年、1761年 - 1787年)
- 大岡忠光(1754年 - 1756年)
- 本多忠央(1758年)
- 水野忠見(1758年 - 1775年)
- 鳥居忠意(1760年 - 1761年、1762年 - 1781年)
- 酒井忠香(1765年 - 1788年)
- 加納久堅(1767年 - 1786年)
- 水野忠友(1768年 - 1777年)
- 松平忠順(1775年 - 1783年)
- 米倉昌晴(1777年 - 1785年)
- 太田資愛(1781年 - 1789年)
- 井伊直朗(1781年 - 1812年)
- 田沼意知(1783年 - 1784年)
- 安藤信成(1784年 - 1793年)
- 松平忠福(1785年 - 1788年)
- 松平忠惠(1838年 - 1854年)
- 水野忠實(1839年 - 1841年)
- 內藤賴寧(1840年 - 1841年)
- 遠藤胤統(1841年 - 1851年)
- 本庄道貫(1841年 - 1858年)
- 本多忠德(1841年 - 1860年)
- 酒井忠毗(1843年 - 1862年、1863年、1864年 - 1865年)
- 鳥居忠挙(1851年 - 1857年)
- 森川俊民(1852年 - 1855年)
- 本鄉泰固(1857年 - 1858年)
- 牧野康哉(1858年 - 1860年)
- 稻垣太篤(1858年 - 1860年)
- 安藤信睦(1858年 - 1860年)
- 諏訪忠誠(1860年 - 1861年、1862年 - 1864年)
- 堀之敏(1860年 - 1862年)
- 水野忠精(1860年 - 1862年)
- 遠山友詳(1861年 - 1862年、1864年 - 1867年)
- 加納久徴(1861年 - 1862年)
- 田沼意尊(1861年 - 1866年)
- 小笠原長行(1862年)
- 稻葉正巳(1862年 - 1864年、1865年 - 1866年)
- 平岡道弘(1862年 - 1867年)
- 有馬道純(1863年)
- 松平乗謨(1863年 - 1864年、1864年、1865年 - 1866年)
- 秋月種樹(1863年 - 1864年、1867年)
- 立花種恭(1863年 - 1868年)
- 本多忠紀(1864年、1866年 - 1867年)
- 土岐頼之(1864年 - 1865年)
- 增山正修(1865年 - 1866年)
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参考文献